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会津駒ケ岳、平ヶ岳

 今年は、夏休み中に、二度も山旅をしてしまいました。
 今回は、登山口が東京から遠い二つの山をいっぺんに歩こうという計画。
 会津駒ケ岳。左には、妻とテント行をした燧ケ岳が見えます。

 平ケ岳の山頂には、説明版がありました。
 まだ深い浸食に刻まれる前の、幼年期の山ということのようです。
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 池塘の生まれ方の説明。

 このたまご石も、かっては地中にあったものが露出したので、不思議な光景となるのでしょうか。
 たまご石というより、だるま石だと思うのですが…。

 平ケ岳は、鷹ノ巣の登山口から片道10キロ。長い稜線歩きに加え、最初と最後にヤセ尾根の急斜面があり、気を抜けないハードな山。
 しかし、あるいただけの甲斐のある魅力的な山でした。
 湿原に、しっかりとしたテン場が10張りくらい(写真の池ノ岳に3張り、水場に1張り、平が岳山頂に5~6張り)あるでしょうか。
 今度来る時は、テントを担いで来たいものです。

 ストックに止まったトンボがなかなか逃げないので、携帯のカメラを取り出し10センチまで近づて撮影。

 写真をとると待っていたかのように、飛び去りました。

8月22日。各地で「平和のつどい」

 平和のつどいが、区内の何ヶ所かで党後援会や、実行委員会の主催で開かれました。
 私が、あいさつでお話したのは、以下のような内容です。


 こんにちは。今年は、戦後65年、安保締結50年という節目の年。その上今日は、韓国併合100年の日です。
 今年、NPT核不拡散条約再検討会議は、重要な前進をきずきました。
 会議の合意文書は、一国でも反対があると採択されないのですが、核兵器は廃絶にむけた具体的なとりくみが必要であるこという「行動計画」が、189カ国すべての賛成で採択されました。これは、核兵器が開発されてから65年の歴史の中で、はじめて廃絶の方向への足がかりがつくられたことになります。さらに、ドイツ、オランダ、ベルギー、ノルウェーなどのNATO加盟国が、欧州に配備されている核兵器の撤去を求め、「抑止力」論の批判が広がったことも大きな成果でした。
 この前進を築く上で、非同盟諸国や途上国、そして私たち市民社会が大きな役割を果たしたことも世界政治の共通認識になりました。みなさんと一緒に集めた「核兵器のない世界を」の署名690万筆が届けられ、NPT会議の冒頭で、カバクチュラン議長は「私は、市民社会が集めた署名を受け取りました。私たちはこの熱意に応えなければなりません」と述べました。文字どおり、市民運動が世界政治を動かしたわけです。
 このカバクチュランさんは、フィリピンの外交官ですし、ジンバブエやブラジルの外交官が国際政治の運営役を担っています。人口わずか460万のコスタリカの提案が世界を動かしています。ですから、もう世界政治で大切なのは、経済力や軍事力の大きさなどではなく、道理のある主張の力なのです。
 ここに確信をもって、いっそう運動を広げましょう。そして、被爆国にふさわしい主張と行動ができる政府をつくることが、私たちに問われていると思います。

 で、私は、このNPT会議に呼応したニューヨークでの国際行動に参加しました。毎日、マンハッタンで署名行動をしたわけです。
 街頭にたつと、あらためて「人種のるつぼ」であり、たいへんな格差社会であることも感じます。しかし、私たちの呼びかけに対しては、ほんとうにいろいろな肌の色と階層の、たくさんの人が応えてくれました。
 ただし、署名に応じない人たちがいました。それは東アジアの人たちです。わたしだけでなく、何人かにききましたが、同じでした。
 日本はかって、アジア・太平洋戦争で東アジアで2000万人もの命を奪い、言い尽くせない犠牲をおしつけました。
 しかも今日にいたるもまともな反省ができないどころか、首相が靖国参拝をくりかえしたり、戦争美化の教科書すら採用されているわけです。そのことが東アジアの人たちにどういう思いをさせているのか。観光や営業でそれらの国を訪問しても、あるいはその感情は、あらわれないかもしれません。しかし、街頭署名では、マンハッタンであっても如実に現れていると思いました。あらためて、東アジアにおける日本と日本人の立ち位置を思い知らされたように感じました。
 歴史問題の解決は、アジア諸国との真の友好のためにも、避けては通れない。民主党政権になって、閣僚の靖国参拝は止まりました。しかし、大切なことは、責任と本質を明確にして謝罪することです。
 歴史の真実を明らかにするために、政府や公的機関が資料を公開し、歴史研究を支援する。歴史教育や平和教育の取り組みを支援し奨励する。慰安婦や南京事件などの史実を否定する意見には、政府自身が反論することが必要です。
 今の憲法がどれほどの犠牲の上に生まれたか、歴史の事実を後世につたえてこそ、過ちを繰り返さない保障ではないでしょうか。そうしてこそ、アジア諸国との真の友好が可能になると思います。

 今、アジアが大きく変化しています。NHKスペシャルでも「沸騰するアジア」という番組を報道しています。根底に大きな二つの平和の流れがあると思います。
 一つは、国境の画定です。中国とロシア、カザフスタン、キルギス、タイキスタンとの7300キロもの国境が画定し、200メートルの幅で標石が埋められました。18世紀に帝政ロシアがシベリア極東に侵出して以来はじめて、双方が承認する安定した国境ができました。あのアムール川には、2000を越える河川島があるそうですが、80年代のおわりから20年近くかけて、すべて解決した。さらに3000キロのインド・中国の国境も44年ぶりに開放されています。
 もう一つは、平和の共同体の流れです。上海協力機構は、ロシア、中国、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンの六カ国が加盟し、イラン、インド、パキスタン、モンゴルの四カ国がオブザーバーで参加。世界総人口の40%。広さは旧モンゴル帝国なみです。
 だから人も物資も安心して交流できる。爆発的に発展しているわけです。
 原油や天然ガスのパイプラインが、カスピ海やシベリア、樺太から、北京や上海、そして釜山めざして張り巡らされています。ユーラシア鉄道が、沿海部から西安や新疆ウイグル、カザフスタンを通って、オランダのロッテルダムまでつながっている。片側三車線の道路が、上海から天山北道にそってカザフスタンの国境までのび、30キロごとにガソリンスダンドがあって、人や物資が大量に行き交っている。
 16世紀の大航海時代の始まりと、帝政ロシアと清の対立で切断されたシルクロードが、今、5世紀ぶりに沸騰しているんです。日本でも中国人の観光客の増加がニュースになっていますが、こういうアジアの流れのなかで見る必要があるとおもいます。

 こういう時に日本が、いつまでたってもアメリカことしか考えない外交、侵略戦争の反省もできない政治でいいのかということです。
 侵略戦争の反省にたち、道義ある立場を確立することができれば、真のアジアの友好だけでなく、この地域で、温暖化対策や貧困対策、さまざまな課題を共同でとりくみ、世界に貢献していくしっかりとした土台となります。こうしてこそ「国際社会における名誉ある地位を占めたい」という憲法の掲げた方向の歩みになるのではないでしょうか。
 私たちの先輩である宮本顕治さんは、侵略戦争に反対を貫いたことで、日本人の名誉を救いました。今度は、私たちの世代が、アジアにおける日本の名誉を築こうではありませんか。そのためにごいっしょに頑張りましょう。
 ありがとうございました。

薬師岳、黒部五郎岳、雲の平、その②

 静かな黒部川源流を遡ります。
 クルマユリとハクサンフウロ。

 祖父岳に向かう稜線で、チシマギキョウ。

 祖父岳山頂から。遠く槍の北鎌尾根から焼岳までの槍・穂連峰。
 手前の鷲羽岳と三俣蓮華岳の鞍部、すこし右が三俣山荘。その右の雪渓のあたりがテン場です。

 雲の平山荘が、建替えされたばかり。木の香漂うといった感じでした。
 笠ヶ岳が立派でした。
 手前の鞍部には、黒部五郎小屋があります。

 黒部五郎岳。



 山歩きが大好きだった元同僚のNさんが亡くなりました。
 山旅や山の思い出を語り合ったことなど、想いうかべながらの山歩きでした。 
 

薬師岳、黒部五郎岳、雲の平、その①

 日曜の夕方、葛飾を出発。夜11時に、岐阜・富山県境の有峰トンネルを抜けた、夜間閉鎖の有峰林道・東谷線の料金所ゲートに到着。早朝6時に開け夜8時に閉めるゲートを、8人で二人づつ宿泊して管理しているのだそうです。
 登山口の折立の駐車場付近には、片側のみ駐車可とした林道に車があふれていました。
 7時に登り始め、11時に太郎平のテン場に到着。空身で薬師岳山頂へ。
 あいにくのガスで山頂からの展望はなしです。
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 三々五々といった感じで、思い思いの場所にテントの設営や、夕餉の支度が始まります。
 私のテントは一番手前。メニューはいつもどおり、インスタントみそ汁に切り餅を5切れ。それに今回は、途中で仕入れたナスとピーマンも。
 読書などしつつ、静かに夜を迎えるのでした。

 夜半に外に出てみると満点の星空。

 快晴の稜線を黒部五郎岳へ。
 雷鳥が二羽、まるで先導してくれているかのようでした。

 なんどかアップダウンの後の急登を頑張れば、黒部五郎岳山頂。
 槍・穂方面は雲に隠れていましたが、北アルプス北部の山々の展望が楽しめました。
 若者たちの二つのグループからシャッターを頼まれたので、せっかくだから私も撮ってもらいました。

 一つのグループは凧揚げをして遊んでいました。
 

原水爆禁止2010年世界大会④

8月6日。

 平和記念式が行われました。
 当日は、朝6時30分から、この碑のまわりは入場が規制されます。

 冷たいおしぼりや水のサービスに加え、今年はテントにめぐらしたパイプから霧を噴き出させていました。

 広島市長の「平和宣言」。
 菅総理、広島県知事につづいて、潘基文国連事務総長が「被爆者の方々が生きている間に、核兵器のない日を実現しよう」とあいさつしました。

 葛飾の木で献水式が行われ、区長らもあいさつし、参加した青年も水を捧げていました。

原水爆禁止2010年世界大会③ヒロシマの祈り

 2日目の分科会が終了。
 65年目のあの日を翌日に控え、ヒロシマは祈りに満ちています。

 川辺では、詩の朗読や、さまざまな楽器の演奏が、交代で行われていました。

 オカリナの音が、あの日焼かれた人々の死体で埋まった本安川の川面に響きわたります。

 平和祈念式にそなえ、地元の中高生の吹奏楽隊が、リハーサルに余念がありません。

 ふと立ち寄った広島市民球場。
 「今でもここは僕たちの夢舞台。旧広島市民球場」の看板。

 「そうだろう!そうだろう!」と思い「中に入れるのかなぁ」と、近寄ってみると、「折り鶴、展示されています」の看板。

 入ってみると、目に飛び込んできたのは…。

 折鶴の山でした。
 2008年の一年間に「原爆の子の像」に届けられたもの、写真はその半年分だそうです。

 折鶴で描かれた折鶴です。

 一つひとつの折鶴に込められた、祈りと願い。
 圧倒される想いでした。

 葛飾の参加者で、夜7時から、記念公園の中の、慰霊や記念の碑を見学して歩きました。
 そこには数え切れない人々の犠牲が刻まれ、祈りと誓いがあります。

 その夜、平和記念公園を訪れる人は夜遅くまで絶えません。

原水爆禁止2010年世界大会②

 世界大会には、国内外から8000人が集いました。
 海外から政府代表なども含め、27カ国・75名。

 30年前の大会での、アパルトヘイトの過酷な差別におかれた南アフリカからの代表の発言をおぼえています。「日本で販売されているリンゴジュースは、野蛮な奴隷労働の収奪の産物だ」と。

 今回、あの戦火のアフガンからの女性が発言していました。
 「弱者の犠牲は広がる一方だ。5歳の女の子までレイプされ、命を奪われている。」
 「経済支援ではゆがみを増すだけ。軍隊ではなく、医師や看護婦、教師を送ってほしい」。

 韓国人女性の被爆者の発言も強烈でした。

 2日目、「核燃料サイクルと核兵器の廃絶」の分科会に参加しました。

 地震列島の日本で原子力発電は無謀です。それは、柏崎でも浜岡でも、実証済みです。
 しかも、放射性廃棄物の安全な処分の見通しはありません。放射能の危険性がほぼなくなるには半減期の20倍の時間をかけて、100万分の一にまで減少させる必要があります。
 しかし、半減期30年のセシウム137なら20倍の600年。足利義光が金閣寺を建てたり、ジャンヌダルクが活躍する時代から今日までの時間です。
 核兵器の材料となり、とりわけ厳しい管理が必要なプルトニウムに至っては、半減期は2万4110年。
 20倍の48万年もの時間、誰が責任をもった管理が可能などと言えるでしょうか。

 ホテルで見たNHKニュースが「世論調査で『核兵器は無くせる』と答えた人は2%」と報じていました。
 しかし、東西ブロックが核弾頭で角突き合わせ「核戦争3分前」とまで言われた時代から、今、核兵器廃絶が文字どおり世界政治の焦点に上るところまで来ました。
 NPT再検討会議がそのことを示しています。

 原水禁世界大会は、刺激に溢れています。

原水爆禁止2010年世界大会①

 ヒロシマの世界大会に参加しました。

 65年前の8月6日、午前8時15分。閃光と熱線、衝撃波と爆風、轟音…。

 わずか1㌔のウラン235は、高性能火薬15000トンに匹敵します。通常の化学反応の何百万倍のエネルギーを発する核分裂のエネルギーを使った原子爆弾が、人間が生活する都市に落とされました。
 そのキノコ雲の下でいったい何がおこっていたのか。

 爆心直下の説明版です。

 今年の世界大会は、NPT再検討会議に示された今日の世界政治の到達点にもとづいて、核廃絶へ運動の方向を打ち出す役割をもっています。
 葛飾原水協の代表の一人として3日間の日程を過ごしてきました。
プロフィール

新井杉生

Author:新井杉生
 1959年2月、埼玉県吉田町(現・秩父市)の農家に生れる。子どもの頃から山や川が遊び場で、今もテントを背負って山々を巡るのが夏の楽しみ。
 77年原水爆禁止世界大会に初参加以来、反核・平和運動にかかわり、現在、原水爆禁止葛飾協議会常任理事。
 81年、共産党専従に。同年結婚。保育士の妻との間に4女に恵まれる。84年、民主青年同盟葛飾地区委員長。同・東京都常任委員の後、足立や葛飾の党地区委員会勤務を経て、13年より葛飾地区委員長。
 09年に総選挙(東京17区)に出馬(同年は葛飾区長選挙も挑戦)以来21年総選挙まで連続5度挑戦。
 葛飾区高砂6丁目に、妻・猫2匹と暮らす。

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