こんにちは。日本共産党葛飾地区委員長の新井杉生です。
軍事同盟から平和の共同体へ。格差と貧困から人間らしい働くルールと安心できる社会保障へ。個人の尊厳が守られ民主主義の花開く社会を、ご一緒につくりましょう。
45年ぶりの級友との再会
今年還暦を迎えた、45年前に中学校を卒業した級友たちが、「新年の懇親会」を、通学した中学校に近い宴会場で開いてくれました。「懇親会」としたのは、連絡が取れない人も多く「同級会」とは銘打てないとのことだそうでした。
ご苦労をされた地元に住む幹事のみなさんには、感謝の言葉もありません。
高校進学が違う人とは、途中の同級会があったとはいえ45年ぶりの再会。
「誰だ、あいつは」などと言いながら、よく見れば昔の面影がよみがえります。中には、卒業アルバムで確認する人も。
あっという間に、会場のあちこちで車座ができては移り、思い出ばなしはつきず、腹の皮がよじれるほど笑いました。
バレーボール部だった人が「今でもママさんバレーやってます」と、元気だったり、 一緒に中学駅伝を走った人に「今も走ることある?」と聞いたら、つい先日、地域のマラソン大会の10キロに出場したとのことで、こちらまで嬉しくなりました。
一方、高校でも野球部をやった人は、大学に入ったら暴力がひどく、正座している一年生を上級生が殴ったそうです。「ひどかったー」と述懐していました。
陸上部で生き生きと走っているものとばかり思っていた人が、実は、「もう嫌でやめるといったら、先生に殴られた。部活を休むとOGが自宅まで来て私を拉致した」「だから怖くて走っていた」。…あまりのことに胸の塞がる思いでした。
「数年前に女子柔道の5輪選手たちがコーチの暴力を告発し、去年はスポーツ界の不祥事がいろいろ明るみにでて、声を上げる人が増えてきたよね」などと話しましたが、この国にはびこる暴力体質は一刻も早く一掃しなければなりません。
なかには「ブログ見てるよ、でもちっとも更新しないね」とも。
人生60年生きれば、いろいろあります。互いの家族のことを話しながらも、「でも孫ばなしと病気ばなしは遠慮したほうがいいかもね」などとも。
次に会えるのが何年後になるかはわかりませんが、同級生たちがこの空の下のどこかで、それぞれ人生を全うしようとしていることに、温かい思いになった一日でした。
ご苦労をされた地元に住む幹事のみなさんには、感謝の言葉もありません。
高校進学が違う人とは、途中の同級会があったとはいえ45年ぶりの再会。
「誰だ、あいつは」などと言いながら、よく見れば昔の面影がよみがえります。中には、卒業アルバムで確認する人も。
あっという間に、会場のあちこちで車座ができては移り、思い出ばなしはつきず、腹の皮がよじれるほど笑いました。
バレーボール部だった人が「今でもママさんバレーやってます」と、元気だったり、 一緒に中学駅伝を走った人に「今も走ることある?」と聞いたら、つい先日、地域のマラソン大会の10キロに出場したとのことで、こちらまで嬉しくなりました。
一方、高校でも野球部をやった人は、大学に入ったら暴力がひどく、正座している一年生を上級生が殴ったそうです。「ひどかったー」と述懐していました。
陸上部で生き生きと走っているものとばかり思っていた人が、実は、「もう嫌でやめるといったら、先生に殴られた。部活を休むとOGが自宅まで来て私を拉致した」「だから怖くて走っていた」。…あまりのことに胸の塞がる思いでした。
「数年前に女子柔道の5輪選手たちがコーチの暴力を告発し、去年はスポーツ界の不祥事がいろいろ明るみにでて、声を上げる人が増えてきたよね」などと話しましたが、この国にはびこる暴力体質は一刻も早く一掃しなければなりません。
なかには「ブログ見てるよ、でもちっとも更新しないね」とも。
人生60年生きれば、いろいろあります。互いの家族のことを話しながらも、「でも孫ばなしと病気ばなしは遠慮したほうがいいかもね」などとも。
次に会えるのが何年後になるかはわかりませんが、同級生たちがこの空の下のどこかで、それぞれ人生を全うしようとしていることに、温かい思いになった一日でした。
秩父市議選で日帰り支援
秩父市議選が明日20日投票(13日告示)でたたかわれています。
私の兄の新井康一も四期目をめざしており、昨日、日帰りで応援に行ってきました。
埼玉県の各地から応援に見えるかたとも、四年に一度の再会です。
共産党の議席は、2月の記録的な雪害での奮闘、里山を破壊する産廃処理場の建設阻止、交通弱者対策、魚道の整備などくらしや自然を守るかけがえないものですが、選挙本番になって、35%もの水道料金の値上げをめぐって論戦が激しくなっていました。
漏水の激しい老朽管の取り換えが理由ですが、浦山ダムや滝沢ダムなどの固定資産税を使えば値上げは必要ないし、特に合併前に交換が終えている地域の住民にとっては承服しがたいもの。
明日の投票箱のふたが閉まるまでの大奮闘で、なんとしても4議席を獲得してほしいと思います。
私は、午前中、実家のある集落の後援会員さんのお宅を、最後のニュースを届けに訪問しました。
中学・高校以来の方とのなつかしい再会もありました。
そんななかで、同じ集落にある落合寅市のお墓も久しぶりに拝んできました。いうまでもなく、秩父困民党の幹部で、当時の下吉田村で最初の自由党員です。
ちなみに、二人目が私の曽祖父の新井寅五郎で、三人目が井上伝蔵と記録されています。
落合寅市が、亡くなられたのが87歳で、昭和11年ということですから日中戦争のさなかです。その時代に、立派な墓が亡くなられたわずか半年後に建立されており、「自由党員 落合寅市之墓」と大書されています。
裏面には寅市の来歴が記されておりました。「立憲政治の確立のために東京に向かって進軍したが、軍隊と三日三晩たたかった敗れた。高知に逃れたのち大阪事件に参加して捕えられたが、明治憲法の大赦で放免された。その後救世軍に参加し神奈川で亡くなった」とのことが当時の貴族院議員の筆で書かれています。
これだけの事実からも、その当時、落合寅一がどれほどリスペクトされていたかが推察されます。
午後は、秩父市街に近い地域のニュース届けだったので、札所23番音楽時によってみました。
吉田の椋神社に集結した困民党軍の甲・乙の二つの大隊が合流し荒川を渡るために集結したのがこのお寺。
「秩父困民党無名戦士の墓」という碑がここの境内にあります。建てた主体は「100周年…委員会」という名称となっていますが、なぜか百周年の6年も前の1978年のようです。
碑文は「われら困民党、暴徒とよばれ、暴動といわれえること拒否しない」です。暴徒・暴動とは明治政府が事件をゆがめるために使った呼称です。どれほどこの言葉によって遺族が差別され歴史が歪められてきたか。事件の顕彰運動は、まさにこの呼称とのたたかいでした。ところがこの「墓」ではそれを「拒否しない」と言う。率直に言って顕彰運動とは異質の立場からのものと言わざるを得ません。
また、副碑の文章も「貧しいもののため『実力』を行使し、全国で決起が広がるだろうと信じて、人知れず死んでいった」という情緒的で陳腐な文章と言わざるを得ないものです。事件の背景や歴史的な意味について真剣に検討した様子は、とうていうかがえません。午前に見た、1936年の絶対主義的天皇制の下で建立された落合寅市の墓碑のほうが、冷静に事実を記しているだけに格調も高い。
こうした「墓」が秩父の人気スポットに存在するのも、顕彰運動の歴史を考えるうえで、一つの資料と言えるかも知れません。
秩父困民党のたたかいを今日に引き継ぐ市議選の支援をしながら、当時に思いをはせる一日となりました。
私の兄の新井康一も四期目をめざしており、昨日、日帰りで応援に行ってきました。
埼玉県の各地から応援に見えるかたとも、四年に一度の再会です。
共産党の議席は、2月の記録的な雪害での奮闘、里山を破壊する産廃処理場の建設阻止、交通弱者対策、魚道の整備などくらしや自然を守るかけがえないものですが、選挙本番になって、35%もの水道料金の値上げをめぐって論戦が激しくなっていました。
漏水の激しい老朽管の取り換えが理由ですが、浦山ダムや滝沢ダムなどの固定資産税を使えば値上げは必要ないし、特に合併前に交換が終えている地域の住民にとっては承服しがたいもの。
明日の投票箱のふたが閉まるまでの大奮闘で、なんとしても4議席を獲得してほしいと思います。
私は、午前中、実家のある集落の後援会員さんのお宅を、最後のニュースを届けに訪問しました。
中学・高校以来の方とのなつかしい再会もありました。
そんななかで、同じ集落にある落合寅市のお墓も久しぶりに拝んできました。いうまでもなく、秩父困民党の幹部で、当時の下吉田村で最初の自由党員です。
ちなみに、二人目が私の曽祖父の新井寅五郎で、三人目が井上伝蔵と記録されています。
落合寅市が、亡くなられたのが87歳で、昭和11年ということですから日中戦争のさなかです。その時代に、立派な墓が亡くなられたわずか半年後に建立されており、「自由党員 落合寅市之墓」と大書されています。
裏面には寅市の来歴が記されておりました。「立憲政治の確立のために東京に向かって進軍したが、軍隊と三日三晩たたかった敗れた。高知に逃れたのち大阪事件に参加して捕えられたが、明治憲法の大赦で放免された。その後救世軍に参加し神奈川で亡くなった」とのことが当時の貴族院議員の筆で書かれています。
これだけの事実からも、その当時、落合寅一がどれほどリスペクトされていたかが推察されます。
午後は、秩父市街に近い地域のニュース届けだったので、札所23番音楽時によってみました。
吉田の椋神社に集結した困民党軍の甲・乙の二つの大隊が合流し荒川を渡るために集結したのがこのお寺。
「秩父困民党無名戦士の墓」という碑がここの境内にあります。建てた主体は「100周年…委員会」という名称となっていますが、なぜか百周年の6年も前の1978年のようです。
碑文は「われら困民党、暴徒とよばれ、暴動といわれえること拒否しない」です。暴徒・暴動とは明治政府が事件をゆがめるために使った呼称です。どれほどこの言葉によって遺族が差別され歴史が歪められてきたか。事件の顕彰運動は、まさにこの呼称とのたたかいでした。ところがこの「墓」ではそれを「拒否しない」と言う。率直に言って顕彰運動とは異質の立場からのものと言わざるを得ません。
また、副碑の文章も「貧しいもののため『実力』を行使し、全国で決起が広がるだろうと信じて、人知れず死んでいった」という情緒的で陳腐な文章と言わざるを得ないものです。事件の背景や歴史的な意味について真剣に検討した様子は、とうていうかがえません。午前に見た、1936年の絶対主義的天皇制の下で建立された落合寅市の墓碑のほうが、冷静に事実を記しているだけに格調も高い。
こうした「墓」が秩父の人気スポットに存在するのも、顕彰運動の歴史を考えるうえで、一つの資料と言えるかも知れません。
秩父困民党のたたかいを今日に引き継ぐ市議選の支援をしながら、当時に思いをはせる一日となりました。
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