秩父市議選で日帰り支援

 秩父市議選が明日20日投票(13日告示)でたたかわれています。
 私の兄の新井康一も四期目をめざしており、昨日、日帰りで応援に行ってきました。
 埼玉県の各地から応援に見えるかたとも、四年に一度の再会です。

 共産党の議席は、2月の記録的な雪害での奮闘、里山を破壊する産廃処理場の建設阻止、交通弱者対策、魚道の整備などくらしや自然を守るかけがえないものですが、選挙本番になって、35%もの水道料金の値上げをめぐって論戦が激しくなっていました。
 漏水の激しい老朽管の取り換えが理由ですが、浦山ダムや滝沢ダムなどの固定資産税を使えば値上げは必要ないし、特に合併前に交換が終えている地域の住民にとっては承服しがたいもの。

 明日の投票箱のふたが閉まるまでの大奮闘で、なんとしても4議席を獲得してほしいと思います。

 私は、午前中、実家のある集落の後援会員さんのお宅を、最後のニュースを届けに訪問しました。
 中学・高校以来の方とのなつかしい再会もありました。

 そんななかで、同じ集落にある落合寅市のお墓も久しぶりに拝んできました。いうまでもなく、秩父困民党の幹部で、当時の下吉田村で最初の自由党員です。
 ちなみに、二人目が私の曽祖父の新井寅五郎で、三人目が井上伝蔵と記録されています。
 
 落合寅市が、亡くなられたのが87歳で、昭和11年ということですから日中戦争のさなかです。その時代に、立派な墓が亡くなられたわずか半年後に建立されており、「自由党員 落合寅市之墓」と大書されています。
 裏面には寅市の来歴が記されておりました。「立憲政治の確立のために東京に向かって進軍したが、軍隊と三日三晩たたかった敗れた。高知に逃れたのち大阪事件に参加して捕えられたが、明治憲法の大赦で放免された。その後救世軍に参加し神奈川で亡くなった」とのことが当時の貴族院議員の筆で書かれています。
 これだけの事実からも、その当時、落合寅一がどれほどリスペクトされていたかが推察されます。

 午後は、秩父市街に近い地域のニュース届けだったので、札所23番音楽時によってみました。
 吉田の椋神社に集結した困民党軍の甲・乙の二つの大隊が合流し荒川を渡るために集結したのがこのお寺。

 「秩父困民党無名戦士の墓」という碑がここの境内にあります。建てた主体は「100周年…委員会」という名称となっていますが、なぜか百周年の6年も前の1978年のようです。
 碑文は「われら困民党、暴徒とよばれ、暴動といわれえること拒否しない」です。暴徒・暴動とは明治政府が事件をゆがめるために使った呼称です。どれほどこの言葉によって遺族が差別され歴史が歪められてきたか。事件の顕彰運動は、まさにこの呼称とのたたかいでした。ところがこの「墓」ではそれを「拒否しない」と言う。率直に言って顕彰運動とは異質の立場からのものと言わざるを得ません。
 また、副碑の文章も「貧しいもののため『実力』を行使し、全国で決起が広がるだろうと信じて、人知れず死んでいった」という情緒的で陳腐な文章と言わざるを得ないものです。事件の背景や歴史的な意味について真剣に検討した様子は、とうていうかがえません。午前に見た、1936年の絶対主義的天皇制の下で建立された落合寅市の墓碑のほうが、冷静に事実を記しているだけに格調も高い。
 こうした「墓」が秩父の人気スポットに存在するのも、顕彰運動の歴史を考えるうえで、一つの資料と言えるかも知れません。
 
 秩父困民党のたたかいを今日に引き継ぐ市議選の支援をしながら、当時に思いをはせる一日となりました。
 

  

プロフィール

新井杉生

Author:新井杉生
 1959年2月、埼玉県吉田町(現・秩父市)の農家に生れる。子どもの頃から山や川が遊び場で、今もテントを背負って山々を巡るのが夏の楽しみ。
 77年原水爆禁止世界大会に初参加以来、反核・平和運動にかかわり、現在も原水爆禁止葛飾協議会常任理事。
 81年から共産党専従、同年結婚。保育士の妻との間に4女に恵まれる。84年に民主青年同盟葛飾地区委員長、その後、同・東京都常任委員の後、足立や葛飾の党地区委員会勤務を経て、13年から葛飾地区委員長。
 09年から総選挙(東京17区)に出馬(同年は葛飾区長選挙も挑戦)、17年は43,138票(得票率19.59%)。
 葛飾区高砂6丁目で、妻、四女、猫1匹と暮らす。

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